ザ・タイガース

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ザ・タイガース(The Tigers)は、日本のグループ・サウンズ。 1967年2月に『僕のマリー』でデビュー、『モナリザの微笑』、『君だけに愛を』など数多くのヒット曲を放ち、グループサウンズ(GS)の神として君臨し、ブームの最盛期を支え、デビューから解散までの4年間、ビジネスとして成り立った唯一のグループサウンズである。1971年の日本武道館コンサートを最後に解散。その後1981年11月に同窓会と銘打って再結成した( - 1983年)。

ザ・タイガースの楽曲をつかったコンピ

  • わが青春のジュリー

    タイガース時代のジュリー、ソロのジュリー、PYGのジュリー、太ったジュリー、どのジュリーもかっこいいジュリー!ジュリーッ!

ザ・タイガースの作品

メンバー

1981年 - 1983年の同窓会時のメンバーは沢田、岸部兄弟、加橋、森本の5人で瞳みのるは不参加。

身長及び体重は現役当時のもの。

来歴

原型は沢田研二を除く4人で1965年に京都で結成された「サリーとプレイボーイズ」。当初は、ベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていたが、同年12月に「サンダース」で活動していた沢田研二の加入で歌主体のいわゆるヴォーカル・インストゥルメンタル・グループへと路線変更。バンド名も「ファニーズ」に改称する。

当時、メンバー全員がファンクラブに加入していたザ・スパイダースの田邊昭知より「上京するならスパイダクション(現田辺エージェンシー)へ来ないか」と誘われたこともあった。

大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」の楽屋へ向かう階段でブルージーンズの内田裕也から『君たち、俺と一緒にやんねぇか?』と声を掛けられたことがきっかけでナベプロ(渡辺プロダクション、現在のワタナベエンターテインメント)に所属する運びとなる。

1966年11月9日、新幹線こだまで上京。11月15日、初出演のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」(CX系列)収録当日、関西出身ということからすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる。また、当時アメリカ、カナダ、イギリス、そして日本などでビートルズを凌ぐ大人気だったアイドルグループ「モンキーズ」の存在を意識して動物名となった説もある。

初のテレビ出演では、当時アメリカ本国に於いてモンキーズに次ぐアイドル人気となっていた元祖パンクロックバンドであるポールリビアとレイダースの『KICKS』を演奏。

1967年2月5日発売のシングル『僕のマリー』(1966年12月の録音時点でのタイトルは『マリーの想い出』)でデビュー。この頃、メンバーのニックネームが決まり、沢田は女優ジュリー・アンドリュースから「ジュリー」と名乗るようになる。岸部は背が高かったことから、リトル・リチャードのシングル『のっぽのサリー』にかけて「サリー」、森本は本名から「タロー」、加橋はトッポ・ジージョに似ていることから「トッポ」、瞳はキューピーに似ていることから、幼少のころに乳母から呼ばれた二ックネームの「ピー」と呼ばれることになった。5月発売のセカンド・シングル『シーサイドバウンド』で人気に火がつき、8月発売のサード・シングル『モナリザの微笑』で一気にマスメディアからクローズアップされ、折りからの爆発的なグループ・サウンズ(GS)ブームも相なって、ザ・タイガースは瞬く間にトップ・アイドルへと躍り出る。

1968年8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を発売し、社会現象とまで言われた圧倒的な人気の渦中でザ・タイガースはGSブームの頂点に立つ。

しかし、1969年3月に加橋かつみがザ・タイガースを脱退(所属事務所の演出による「加橋失踪」という茶番劇で、後に事務所側は謝罪会見を開いた)。事務所のシナリオ通りに新メンバーとして岸部の弟・岸部シローが加入するも、1969年も夏に差し掛かる頃には急速に音楽シーンが多様化、GSブームも終焉の兆しを見せ始める。そんな中、7月にはほぼ完全に沢田のソロシングルとも受け取れるような『嘆き』(岸部シローの薄いコーラス程度)を発売、秋からは日増しにグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となっていった。その後12月1日に沢田は初のソロ・アルバム『JULIE』を発表する。

1970年4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」を開催するなど根強い人気を保つものの12月7日、ザ・タイガースは解散を表明。翌1971年1月24日、日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を事実上の解散コンサートとして、ザ・タイガースは解散する(武道館では以前、新曲発表会を開いているので初演ではない)。この模様は日曜日ということもありテレビで生中継され、大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売された。

再結成

解散後、瞳を除くメンバーで何度か再結成され、コンサート活動も行った。

1981年1月、東京・有楽町の日劇が取り壊されるのを前に、「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」が開催され、ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・カーナビーツなど往年の人気GSが再結成して集結。瞳以外のメンバーが結集しザ・タイガースも再結成する。

翌1982年には「ザ・タイガース同窓会」と銘打って本格的に再結成。ただし瞳みのるに配慮して「来たい人だけ来ればいい」という意味合いから一貫して「同窓会」の語を用い、自分たちは「再結成」とは決して称しなかった。アルバム『THE TIGERS 1982』やシングル『色つきの女でいてくれよ』をリリースし、大ヒットとなる。これをうけて全国ツアーも展開され、1983年までシングルやビデオ、写真集などが次々と発売された。

1989年12月31日には、NHK紅白歌合戦に初出場。紅白40回記念大会の昭和を振り返るコーナーに紅組のピンク・レディーとともに出演し、『花の首飾り』、『君だけに愛を』を演奏する。

その他別名義での活動

1971年に沢田と一徳はザ・スパイダース、ザ・テンプターズのメンバー数人とスーパーグループ「PYG」を結成。

1988年に森本が中心となり、往年の人気GSの中心メンバーがそろって「タイガース・メモリアル・クラブバンド」を結成、アルバム制作やコンサート活動を行った。アルバムでは「花の首飾り」を新録音している他、本人たち出演のカラオケ「DAM」では、沢田と瞳を除く4人が出演している。

1989年には、大阪城ホール及び横浜アリーナで開かれた「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」コンサートに瞳を除く5人のタイガースでトリで出演。ジョイント演奏コーナーが大半を占める中、単独で数曲を演奏した後に、ラストでは他の出演者と共に「シーサイド・バウンド」を演奏した。

1993年には森本、加橋、シローに岩本恭生を加えた構成で「ザ・タイガースマニア」というユニットで活動しシングルをリリースしている。

1997年には、森本、一徳、沢田がロックユニット「TEA FOR THREE」を結成し、ラジオ番組のパーソナリティなども努めたが現在は活動を休止している。

2003年には、解散後、ザ・タイガースの元メンバーと一切の交流を絶ち、古文・中国語関連の参考書の著者および慶應高校の漢文教師として中国語教育に力を入れていた瞳に捧げ、沢田と一徳が作詞を手がけた曲『Long Good-by』が、森本率いる「森本太郎とスーパー・スター」のオリジナル曲として発表された。また、沢田自身もこの曲を2008年9月24日に出演した『SONGS』(NHK総合テレビジョン)にて歌唱している。元マネージャーの中井國二の尽力や、瞳の心境の変化、そしてこの曲による呼び掛けがきっかけとなり、その年の暮れに沢田、一徳、森本と瞳が38年振りに東京での再会を果たし、翌年には加橋と瞳も再会した。

2011年9月8日に開始された沢田研二の2011年 - 2012年ライブツアー(全公演38回)に岸部一徳、森本太郎、瞳みのるがゲスト参加することが決定した。切符の発売当日に、大都市開催分は即日完売となり、特に瞳の40年ぶりの参加が大きなインパクトになっている。

社会現象

魅惑的な大きな瞳に端整かつ甘美なルックスで他の男性歌手とは明らかに一線を画していた沢田は10代少女から熱狂的な人気を博し、一躍芸能界を代表する国民的なアイドルとなる。

その反面、当時は不良の代名詞とされた長髪やエレキという要素に加え、異常ともいえる人気の過熱ぶりはコンサート会場での転倒事故や、女子高生によるコンサート入場券偽造事件などという不幸な結果を招き、世の大人たちはGSブームを煙たがり、NHKはザ・タイガースの出演を拒否した(既にNHKの冠番組「歌のグランドショー」用に収録済の映像もあったが、転倒事故を理由に放送中止となった)。以後、沢田は1970年に歌わないことを条件に単独出演した後はソロ活動中の1972年までNHKに出演することはなかった。

瞳みのるの41年ぶりの参加は、ファンの間や社会で団塊の世代でもある、ザ・タイガースの新たな好ましいイメージを形成しつつあり、大スター沢田、俳優としての評価が定着した岸部、GS出身のインテリ瞳というそれぞれがそれぞれ一流の道を極めたという、このグループならではの特異な成り立ちは、各方面から注目されている。